2008年4月26日

食べ物と命

食べ物と命


毎日必ずすることである食事。

食べ物がない、、、となったらおそらくとんでもないパニックになるでしょう
食べ物が足りない状況では食べ物を求めて人と人が争うのもありえることかもしれません


現代日本に生まれ、幸いにも何不自由なく育ててもらった私は食べ物に困ったことは一度もありません。1年半くらい前までは、

食べることが「生きるのに不可欠な最低限のニーズ」


だということはすっかり忘れ、より「おいしいと感じられるもの」を食べたいって気持ちでいっぱいになっている自分がいました。日本のテレビでは「おいしいと評判な料理」とか「贅沢な料理がこんなに安く食べれる」などのテーマを扱った番組がたくさんあり、そういうのを見ているとやっぱり「食べる贅沢」を味わいたいという気持ちになってしまいます。


しかし今現在でも世界全体のことを考えると(日本も含みますが)、数多くの人が食べ物が足りない辛い生活をしています。

地球環境問題によって気候や生態系が変化し食べ物の収量が減る恐れ
や、
2050年に世界人口が約90億人に達するという見通し


を考えると、「食糧危機」が悪化の方向に向かう可能性は大きいと思います。そうなれば、日本もどうなるかわかりません。多くの重要な食料を輸入に頼る現状を踏まえると、日本も世界における食料危機が深刻化したときに大変な状況を経験するのかもしれません。


私は両親や中学の頃の恩師・青柳先生の影響があり、嫌いな食べ物は元々なかったのですが、このようなことを考え始めてから前にも増して食べ残しをしないと強く思うようになりました。食べ物を「商品」として扱う社会経済の仕組み上、仕方ないのかもしれませんが日本では莫大な量の食べ物が毎日「破棄」されているようです。自分もこの仕組みの中で「食べ放題」してきたので、否定はできないのですが、せめて食べ物を残さず大切に食べようと思うのです。


食べ物はもともと命です。植物・動物の命を奪って人間は「食べて」います。莫大な量の食べ物を「破棄」することは「莫大な量の命を破棄すること」だとも考えられます。だから少しはこの仕組みが変わるといいなと思うのです。


映画「いのちの食べかた」

このドキュメンタリー映画は鶏肉・牛肉などの食肉加工工場の様子を、主に「撮影しただけ」の映画です。鶏や牛が

人間に食べられるために「生み出され」
人間に食べられるために「育てられ」
人間に食べられるために「殺され」
人間に食べられるために「流れ作業で解体される」
様子が、淡々と登場します。

私たちがリーズナブルな価格でおいしくお肉が食べられる背景には「誕生から解体まですべてを人間に”管理されている”動植物の存在」があるのだと強く知るに至ります。

世の中が便利すぎて、「食べるということは命をいただくことである」という常識がとっても遠いところにあるのかもしれません。私も今でもそうなのかもしれません。


隊員が任国に派遣される前に受ける2ヶ月間の訓練(私の場合は福島県)のなかで、「鶏解体」の授業がありました。

生きている鶏を木に縛りつけ、首を切り、熱湯に入れた後、全身の羽をもぎ取り、包丁を使って足・内臓・他の部位の肉と解体していくということを料理長の指導の下、隊員候補生が実際に行いました。

作業の中では、鶏の体の温かさを感じ、首を切るときは血が飛び散り、血生臭さがしました。この作業を通じて、「普段食べている肉は動物を殺して得ているのだという実感」が得られました。ただし、今現在では、これらのほとんどの作業を機械が自動的に効率よく行うので、自分の手で殺してから食べることは滅多にありません。

肉を取り巻くこのような状況を受け入れることができずにベジタリアンになった友人にも去年の夏、出会うことができました。彼女の取った生き方はさらに自分を考えさせました。

私は、食べ物に感謝し残さず大切にいただくことを私の「食べかた」としていこうと思っています。


いつも「いただきます」の意味をしっかりと考えられる自分でありたいと思います。


食べ物に感謝


2008年4月26日

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