2009年1月5日

2008年を振り返って

2008年を振り返って


新しい環境で

2008年は訓練所への入所からはじまりました。
雪に包まれた福島県二本松市の訓練所で多くの仲間と出会いました。
同じ隊員でも職種や派遣国は様々です。訓練所の中では様々な国の言語が飛び交い、多種多様なバックグラウンドを持った素敵な仲間との交流に溢れていました。
あのような素晴らしい環境で訓練をさせてもらえ、素晴らしい仲間と出会えたこと。これらの経験は私にとって貴重なものです。

3月下旬にタンザニアに到着しました。

これからの2年間が自分をどう成長させてくれるのか
このタンザニアで自分は何を思い、何を学ぶのか
タンザニアの人々とどう楽しく生活していくのか

そんな気持ちでワクワクでした。

今までの人生でここまで大きく生活の環境が変化したことがなかったので、とっても不思議な気持ちでした。

タンザニアの環境が自分を受け止めてくれている、自分を受け入れてくれている

そう思えるまではどこか落ち着かない気持ちにさいなまれる日もありました。こういう気持ちが経験できたことは本当に良かったと思います。
当初そう思えなかったのはなぜか?途中からそう思えるようになったのはなぜか?

答えは自分自身の捉え方にあると思います。この当初のもやもやを乗り越え上記の感覚が得られたことで、自分の中の「大きな何か」が変わりました。少し自分の自信にもなりました。



さまざまな人々との交流

訓練所でも色々な魅力を持った人に本当にたくさん出会うことができましたが、タンザニアに来てからも本当にたくさんの人に出会いました。

タンザニアで働く日本人
首都を行き交う人々
村で自然とともに逞しく生きる人々
学校の生徒、先生たち
多くのこどもたち                 などなど

彼らとの意思疎通は基本的にスワヒリ語を通してです。私の住む村ルクレディは「マクア族」という部族が多いところなので、彼らの部族語である「マクア語」も少しずつですが話し始め、コミュニケーションの幅、楽しさが広がりました。マクア語をしゃべると人々は本当に喜んでくれます。その喜んだみんなの顔を見ると私もとっても幸せになります。もし日本にいるタンザニアの青年が私の地元山梨の甲州弁をしゃべったら、、、と想像するとやっぱりとってもうれしくなります。

相手が歓迎して喜ぶのなら、相手の言語や文化・慣習にお邪魔させてもらうことも積極的に行うほうが、素敵な経験につながることを身をもって実感できた年でした。

そして言葉や文化や宗教が違っても意思疎通を図りたいという気持ちが本物ならどんな人とでも楽しく会話ができるんだなという思いを強くすると同時にその本当の楽しさに幸せを感じた2008年だったと思います。


タンザニアでは挨拶時に握手をすることがかなり多いですが2008年に握手をした回数はもう数え切れません(笑)挨拶をするときにお互いが交わす笑顔の表情のやわらかさ、握手をするときの感覚。これらが今の自分には印象深く残り、タンザニアで多くの人々と交流した証として自分の中に積み重なっているような気がしています。2009年も大切に積み重ねていきたいと思います。

初めて会った人とでも挨拶から始まって5分後には「政治」や「宗教」や「日本・タンザニアの生活の違い」について熱い話ができてしまうこのフレンドリーさが自分にはピッタリと合っていて、人々とのコミュニケーションが毎日、自分に「何か」を与えてくれます。

本当にここにいさせてもらえることに感謝の気持ちでいっぱいです。そしてそんな自分を受け入れてくれているタンザニアの人々に心から感謝☆



中学校の先生として

今年の数学教師としての活動を振り返ってみると、満足には程遠いものだったと思います。毎日の授業をこなすことがメインになってしまい、学校全体の環境をより良いものにしていくという部分に関しては何も行うことができませんでした。正直そこから逃げていた自分もいたと思います。
生徒との関係は自分なりにとても良いものであり、同僚の先生とも「人間としての関係」はとても良いものを築くことができました。しかし、同僚の先生の「先生としての態度」に何も言うことができず、結局見て見ぬ振りをしてしまう形になってしまいました。今年はこのことも課題として取り組んでいきたいと思います。



教えに行って教えられる

これは日本で隊員の研修を受けているときに講師の先生が「隊員が任国に行ってしばしば実感することだ」と言って私たちに教えてくれた言葉です。私もまさにこれを実感しました。

生徒にいろんなことをいっぱいいっぱい教えたくて行ったはずなのに、自分が生徒から学ぶことの方が多い気がします

生徒をいっぱいいっぱい褒めてあげようと思っていったはずなのに、生徒から褒められることのほうが多い気がします

ルクレディの村の人々を少しでも幸せな気持ちにできたらと思っているうちに、私が村の人々に幸せな気持ちにさせられることが本当に多いです


たぶんそれはまだまだ自分の努力や行動力が足りないからだと思います。

今年はもっとフットワークを軽くしていろいろなことを試み、生徒にいっぱい教え、生徒・人々をいっぱい褒め、なるべく多くの人々を幸せな気持ちにできるようチャレンジしていきたいなと思います。

もちろん回りの人々が私にもたらしてくれる幸せも大切に受け取り、自分の財産としてたくさん貯めていこうと思っています。

多くの人に助けられ、支えられ、守られ、生かされていることを改めて実感した2008年でした。

今年も、そして日本に帰ってからも、この先ずっとずっとそのことを忘れずに毎日を過ごして行きたいと思います。

あなたの笑顔が私の笑顔をつくることに感謝し
私の笑顔があなたの笑顔をつくることを信じて

今年2009年も毎日が楽しく過ごせますように(^0^)


2009年1月4日

2009年1月4日

頭に乗っけてモノ運び!?

タンザニアの人々は物を運ぶときに頭の上に乗せて運びます。
重いものから軽いものまで、形状の様々なものを頭に乗せて運びます。

物を運ぶ最中も両手(または片手)をフリーにしておける(自由に使える)
片手だけに物を持つとバランスが悪く運びにくいが、頭の上なら重心が変わらず運びやすい


などの知恵の結晶がこのスタイルになったのではないかと推測しています!

これ本当にすごい技術です(驚)

私では到底できません。
慣れない私たちが重いものを乗せると首が本当に痛くなるし、
頭の上に物を乗せたまま普通のスピードで歩くことが出来るあのバランス感覚は本当にすごいです!

みんな、特に女性は小さな頃から頭の上に物を乗せて運ぶ練習をお手伝いの中でしています。
本当にすごい技術です!

ということで何枚か実際の写真をご紹介!

先輩隊員の任地Chigugu村で。 バケツはみんな本当によく乗せてます、頭上に

ムトワラ州の州都ムトワラで。 トウモロコシの粉でしょうか?20kgぐらいのはず。。(焦)タンザニアで力仕事をしている兄ちゃんをみると、自分が本当にひ弱に思えます。

ムトワラ近くの路で。 子供を背負う風景は日常茶飯事。 お母さんはとっても逞しいです

私の任地ルクレディの畑地帯で。 集めた薪と仕事に使った斧を頭に乗せてます 良い笑顔をしてくれました

ムトワラ州の海岸部ミキンダニの丘で。 小さな子供も家事をしっかり手伝います。 集めた薪で夕飯の準備をするのでしょうか


2009年1月3日

スワヒリ語の文を作ろう!!

スワヒリ語の基本的な文構造

A=Bの文

私は日本人です
あなたは先生です
彼はいいやつです

などの「A=B」の文は
A ni B
と書きます。ni が 「=」(イコール)に相当します。

私(mimi)、日本人(mjapani)なので

mimi ni mjapani (ミミ ニ ムジャパニ)  私は日本人です

となります!

あなた(wewe)、先生(mwalimu)なので

wewe ni mwalimu (ウェウェ ニ ムワリーム)  あなたは先生です


彼・彼女(yeye)、良い人(mzuri)なので

yeye ni mzuri (イェイェ ニ ムズーリ)  彼はいいやつです

という風になります!簡単です!

では

私は日本人ではありません
あなたは先生ではありません
彼はいいやつではありません

と言いたい時はどうするかというと

前述の ni を si に変えます
つまり si は 「≠」(イコールではない)を意味します


mimi si mjapani (ミミ シィ ムジャパニ)  私は日本人ではありません

wewe si mwalimu (ウェウェ シィ ムワリーム)  あなたは先生ではありません

yeye si mzuri (イェイェ シィ ムズーリ)  彼はいいやつではありません

となります!!簡単!!



主語と目的語がある文

基本的な文の構造(要素の順番)は

主語 主辞-時制辞-目的辞-動詞 目的語 その他の要素

です。
「辞」とは文法用語ですが、意味は「目印」のことだと思ってください。

主語・目的語になる代名詞は

単数
1人称 mimi(私) (ミミ)
2人称 wewe(あなた) (ウェウェ)
3人称 yeye(彼・彼女) (イェイェ)
複数形
1人称 sisi(私たち) (シィシィ)
2人称 ninyi(あなた達) (ニーニー)
3人称 wao(彼ら) (ワオ)

と書きますがこれらとは別に主語や目的語を表す代名詞がスワヒリ語には存在します。

主辞一覧
私(1人称) ni
あなた(2人称) u
彼・彼女(3人称) a
私たち(1人称複数) tu
あなた達(2人称複数) m
彼ら(3人称複数) wa
目的辞一覧
私(1人称) ni
あなた(2人称) ku
彼・彼女(3人称) m
私たち(1人称複数) tu
あなた達(2人称複数) wa
彼ら(3人称複数) wa

また時制辞というものがありこれを主辞と目的辞の間に挟むことによって時制が表現されます。

現在時制 na
過去時制 li
未来時制 ta
完了時制 me

が主なものです。

では動詞「penda」(好き、愛する)を使って文を作りましょう!!

「私はあなたが好き」 と言いたいとします(スワヒリ人に告白したいとします)

主語 主辞-時制辞-目的辞-動詞 目的語 その他の要素

という先ほどの構造に従って、要素を埋めていくだけです!

この場合
主語は私なので mimi
主辞は私なので ni
時制辞は現在なので na
目的辞はあなたなので ku
動詞は penda
目的語はあなたなので wewe
その他の要素は今はありません(これは例えば「とっても」などのような副詞など)


主辞から動詞まではハイフンでつながっていますがこれは書くときにつなげて書くという印です
なので,まず埋め込んでいくと

mimi ni-na-ku-penda wewe

となるので、

mimi ninakupenda wewe (ミミ ニナクペンダ ウェウェ)

とハイフンを消せば完成です!

上の一覧表を使って「誰が誰を好き」といういろんな恋愛関係を作ってみてください!時制も変えられますよ!

「あなたが昔好きだった」のなら時制辞をnaからliに変えて

mimi nilikupenda wewe (ミミ ニリクペンダ ウェウェ)

とするだけですし、「彼があなたを好きらしいよ」と伝えたければ

yeye anakupenda wewe (イェイェ アナクペンダ ウェウェ)

とすればいいのです!簡単だと思いませんか?
英語は過去形・過去分詞の形が現在形と違う動詞が結構多くいちいち覚えるのが大変ですが、スワヒリ語は時制辞を変えるだけでOK!!

ちなみに日常の会話では主語と目的語のところは言わないことが多いです。
主辞と目的辞で対象がはっきりすることがほとんどのためです。

ninakupenda だけで「愛してるよ」と伝えることができます!

2009年1月3日

科学技術の功罪

科学技術の功罪

科学技術立国、日本

これは現在よく耳にするフレーズだと思います。

天然資源の獲得を自国の環境からはまかなえず、農業もどんどん縮小させてきてしまった日本の武器はやはり科学技術。科学技術の進展が多くの利益・希望を生み出すとともに他国との良好な関係を築く切り札である。(エネルギー源の石油や主要原料の大豆・トウモロコシなどはほぼ全てを輸入に頼る現状と世界に誇る日本製品の質の高さと技術力を背景にした日本の戦略)


これが私の解釈ですが(間違っているかもしれません)、みなさんはどうお考えでしょうか?

日本にいた頃を思い出すと、テレビでは車・ケータイ・テレビなどのCMがかなり多く流れていた気がします。ポータブルのゲーム機(ニンテンドーDSなど)や音楽再生機(iPodなど)も新しいものが次々登場し、冷蔵庫や洗濯機に加えパソコンやケータイなど、生活になくてはならない電気製品の数はかなり増えた気がします。生活には電気製品が溢れ、停電になった時の生活が日本では考えられません。


私たちの生活を取り囲む科学技術は私たちの生活を便利にし、時に新しい価値観を生み出し私たちの生活を豊かにする

2007年頃の私は「上記のような事実が完全に私たちの常識になっており、科学技術の負の側面が省みられることがない」ような気がしていました。ともすれば「科学技術至上主義」という言い方が当てはまりそ
うな現在の日本での生活の側面も考えてみたいと思い、途上国に住みたいという思いが強まりました。


そして日本にいるときに考えていた科学技術の負の側面とは

科学技術の進歩は地球環境の悪化や天然資源の枯渇の速度を大きくし、人間の世代間格差を大きくしているのかもしれない。(科学技術によって生み出される製品の流れとそれに伴う資源の搾取は大量消費社会と地球環境問題の到来に寄与した部分がある)

科学技術の進歩という道具はそれを操れる先進国の人々とそれを操る基盤を持たない開発途上国の人々の間の格差を保存することを助けているのかもしれない。

これから先、科学技術の進歩が進めば、人間にとって取り返しのつかない「何か」が生み出されるのではないか(特に生命科学の分野など)

知らず知らずのうちに科学技術に飲まれ、本来の幸せが妨害されているのでないか(ケータイやインターネット通信でコミュニケーションの方法が増え便利になった反面、本来の会話によるコミュニケーションがおろそかになり、心が満たされない。など)

というものでした。そして

現在の経済の流れの中では、消費者が必要か必要でないかに関わらず、どんどんと新製品を生み出し、生産者側からニーズを創出し、販売し続けなければいけないのではないか

ということを考えるようになりました。
もしこれが本当だとすればもう負の側面に気を配っている暇はありません。日本経済存続のためにはとにかく研究開発を急いで新しい製品を世に送り出さなければならないのかもしれません。

こんな風に当時の私は科学技術の在り方に対して少々否定的な見方を持っていました。
たぶんそれは私が「新しい製品を買いたい!」という欲求があまりないため、そのように思えてしまったのかもしれません。(テレビはブラウン管でもよいと思っているし、ケータイでテレビが見れなくてもいいと思っているし、ポータブルMUSICプレイヤーも買ったことがありません。などなど)


しかしタンザニアに来て実際に生活をし、どう感じたかと言うと、、、



科学技術の成果は必ず多くの人々を幸せにするという側面を持っている

現在の科学技術の進歩は後世の人々にも良いものとして利用される可能性は大いにある

先進国の人がもたらした科学技術の成果により途上国の人々も確実に幸せになっている。そしてそれは自分が想像しているよりもずっと多くの人々を幸せにしている。

自分も科学技術の恩恵なしには生きていけない。(恩恵を無限に受けている)

などがその応えです。

ここタンザニアで走っている車のほとんどは日本の会社製のものです。TOYOTA、ISUZU、NISSAN、MITSUBISHI、などなど。田舎ではこれらの車は本当にオンボロでおそらく日本で廃車になったものを持ってきたんだろうという感じです。(どういう取引の末にタンザニアに入ってくるのかはわかりませんが)排気ガスも本当に汚くおそらくやばいです。でも日本では考えられないくらいのそんなオンボロでもここの多くの人々を確実に幸せにしています。

仕事や学校が休みになったので里帰りする人や生徒を運ぶバス
病気になった村人を町の病院まで搬送する車
各地に食料・物資を運んでいるトラック

これらの重要な任務を背負い、それらの車はタンザニアに到着したのです。

もしそれらの車がなかったら里帰りの喜びも、病院に行ける安心も、物が地方まで行き渡った後の人々の喜びも、なかったのかもしれません。
そう考えると日本の自動車産業がもたらした幸せの大きさは無限に近いものに思えてきます。


私の住んでいるようなタンザニアの僻地でも携帯電話の電波塔があり、ケータイが使用できます。裕福な村人ならみんな普通にケータイを持っています。

そして私も!

任地でケータイが使えることがどれだけ大きいことかに対しては疑いの余地がありません。

病気になったとき、その他の緊急事態時に他の隊員や事務所に電話をすることができるという安心
任地にいながらにして日本にいる家族や恋人、友人と会話ができる喜び

携帯電話がこんなに意味の大きい道具だったことを日本にいた頃の私は気づくことが出来ませんでした。そして科学技術を否定的な目で見ていた自分自身こそが誰よりも大きな恩恵を受け取っていたことに気づきました。自分の浅はかさや傲慢さに恥ずかしくなりました。


現在タンザニアにいる専門家の方から聞いた話では
「昔ある途上国で魚の流通に関して、漁師が大きな損失を負わされていた。それは漁師と消費者の間で取引をする仲買人が自分の儲けを増やすために不当な取引を漁師に強いていたからだ。漁師は市場の情報を持たないから従わざるを得ない。しかし携帯電話が普及して漁師が市場の正確な情報を得られるようになってその問題は解消されたそうだ。」
という事実もあるそうです。

このような話を聞いたとき、科学技術がもたらす恩恵の大きさは私の想像をはるかに超えている。ということを認識しました。

科学技術の進展がもたらす成果をこんなちっぽけな人間である私に否定できるわけがないということをはっきりと自覚しました。


きっと科学技術に限らず全てのものには良い側面と悪い側面があるのだと思います。
そしてこの世に存在している以上そのモノには大きな良い側面があるはずなのです。
たぶん大切なことは悪い側面をどう殺すか、つまりそのモノの活用の仕方ではないかと思うのです。

例えば、形ある製品については
生産者はその製品のライフサイクルにもっと気を配ってモノをつくる
消費者はその製品の必要性を吟味して消費活動をする
途上国の人々と製品を取引するときは公正な取引をする


これらのことを意識して実行していけば、日本人としてより良く科学技術の成果を享受できるのではないでしょうか?
いろいろな科学技術を操り、多くの幸せを世界にもたらしてきた日本の科学技術がもっと輝くためには、きっといままで以上の「気配り」が必要なのだと思います。その気配りはしばしば目の前の損失を意味します。なのでバランスを取りながら出来る限りでいいと思うのです。しかしその気配りが長い目で見たとき、大きな利益につながると思うのです。
そしてこれから科学技術の進展はさらに専門性が高まり、スケールの大きいものになっていくと思われます。それに伴い、新しい科学技術の持つ良い側面も悪い側面もよりスケールの大きいものになり、それらが世界にどのように影響を与えるのかも予想しづらくなるような気がします。我々も「科学技術のことはわからないから科学者に100%任せきりでいいや」という態度をやめ、関心をなるべく持つように心がけたほうがよいのではないかと思うのです。

「この科学技術はどのように役に立つのか、どのような負の側面があるだろうか?」

最後に、、、私の大学時代の大親友で今春から電器メーカーで研究開発のお仕事に携わることが決まった彼が私に漏らした一言を紹介させてください。彼はテレビなどの開発に携わるそうです。

仕事に就く前からこんなこというのはあれだけど
世界に目を向けると、自分はテレビなんか作ってていいのだろうか
って思うね。

私は彼は本当に良い仕事をして、素晴らしいテレビを作って、最終的に世界の人々をたくさん幸せにする研究者・技術者になると確信しています。世界に目を向けるその「気配り」があれば「鬼に金棒」だと私は思います。彼を尊敬すると同時に、彼のようなステキな友人に恵まれた私はとっても幸せだなと思います。


科学技術の成果にただひたすら感謝し続ける日々です
こうやってブログができるのもインターネット技術の誕生にご尽力された数え切れないくらい多くの人々のお陰なのだと強く実感しています。

この投稿を書くに至るまでに、本当に多くの人々と科学技術についての話をしました。皆さんが本当に建設的に話をしてくださり、私に多くのヒント・アドバイスそして勇気をくれました。
本当にありがとうございました!これからも私とたくさん話をしてやってください!

2009年1月3日